ニッサン

1999年は開幕から怪我に悩まされ、阪神タイガースの藪恵壹からの死球で左手を亀裂骨折。さらに6月には広島戦でクロスプレーの際に右足の靭帯を負傷し、出場試合数は86試合、成績は.236、13本塁打、46打点に留まり、前年までの「連続20本塁打記録」は13年で途切れてしまった。いよいよ土俵際となった清原はオフに鹿児島・最福寺にて護摩行を敢行。すべての煩悩を焼き尽くし意を決した清原はアメリカに飛び筋力トレーニング(「肉体改造」)に励む(詳細は後述)。 2000年もキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。その際、巨人のオーナーであった渡邉恒雄には「(清原が一軍にいないことで)勝利要因が増えたな」とまで言われた。(渡邉はこう言っているが、事実、渡邉のオーナー就任後、この時点ではまだ優勝がなく、「渡邉こそとっととオーナーを辞めろ、そのほうが優勝確率が高くなる。」という巨人のファンも存在した。)渡邉はその後、カラスを打ち落とそうとして骨折したことがあるが、「番長日記」では、ざまあみさらせボケ!などと痛烈に罵る文が掲載された。(これは本人の言葉ではない。しかし、7月7日の復帰後初打席で代打3ランを放ち復活をアピール。夏場にはレギュラーの座に返り咲き、75試合の出場で.296、16本塁打を記録。日本シリーズでは3番打者として活躍した。またこの年、モデルの木村亜希と結婚している。石垣島 ダイビング 2001年は5 年契約の最終年であり、これまでの成績から契約更新は絶望的であるといわれていた。しかし清原は開幕から大きな怪我をすることなく打ち続け、特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点と好成績を残し(打点は自己ベスト)、年俸大幅アップと4年契約を勝ち得た。 2002年も開幕から好調であったが、故障のため戦線離脱。シーズン終盤には復帰し55試合出場に終わるが、.314、12本塁打と一定の成績は残した。故障を押して出場した日本シリーズでは松坂大輔から本塁打を放っている。また8月23日には長男が誕生した。 2003年は松井移籍数日後に原辰徳監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率.290、26本塁打を記録している。しかしシーズン後半にはペタジーニが4番を打つことが多くなり、(ペタジーニも規定打席不足ではあるが)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。パラオ ダイビング 2004年はペタジーニとの併用で出場試合数が減少。史上31人目、巨人の選手では落合博満以来6人目の2000本安打を達成するが、成績は.228、12本塁打と低迷。同年シーズン終了後、監督の堀内恒夫の戦力構想から外れたことが判明。退団の危機に陥ったが、オーナーに直談判、堀内監督にも残留を哀訴し、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。高速バス 格安 2005年の清原は、「ナンバ走り」など科学的トレーニングを取り入れ下半身の負担を減らすことを試みる。またメジャーリーガーのバリー・ボンズにあやかりダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。しかし開幕では4番だったものの5月以降は主に6番を打つことが多くなった。4月14日の阪神戦で、福原忍から本塁打を打ち、本塁打を打った投手の人数が200人に到達(史上初)した。4月29日の広島戦(広島市民球場)で広池浩司から本塁打を打ち、史上8人目の快挙となる通算500本塁打を達成。その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時.269まで上昇した。 しかし、交流戦のオリックス戦で投手の山口和男から頭部への死球を受け、下半身の故障も重なって成績は徐々に低迷し、張本勲に並ぶ入団以来20年連続2桁本塁打を記録するも、打率は自己最低となる.212に終わった。8月4日の対広島戦では打順は7番で起用されたが、これに激怒。4回表に本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した後、ベンチでチームメイトとのハイタッチを拒否した。そして、シーズン終了を待たずに球団から戦力外通告を受け、12月に正式に自由契約選手として公示された。後に清原は戦力外通告を受けたことについて関西の番組内で聞かれ、「視聴率が取れなくなったからという理由で辞めさせられるのは悔しい」と後輩の片岡篤史たちに語っていた。またその時の悔しさからか、同番組内にて「巨人は富士山、遠くから見れば綺麗だが、登ってみるとゴミばかり」と発言した。 オリックス時代高速バス 広島 巨人から戦力外通告を受けた2005年シーズン終了後、オリックス・バファローズのシニアアドバイザーである仰木彬が「大阪に帰って来い。お前の最後の花道は俺が作ってやる」とオファーし、オリックス入団が決まった。仰木には前年の2004年にも勧誘を受けていたが、その際は巨人に残留し、1年後のオリックス入りが現実となった。直後に仰木は肺癌による呼吸不全で死去し、それ以降清原は仰木を「野球界で最も尊敬する人物」として語るようになった。ただ、オリックス入団の決断は仰木の死去後に下されたため、「他球団からのオファーが無かったことを確認してからオリックス入りを決めた」との批判もなされた。が後に本人はその点を否定している。 背番号は巨人時代に引き続き5(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年入団の中村紀洋がつけた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。 当時体重は120kgに達していたが、2ヶ月足らずで約20kgの減量をした。また球団が吉本興業と業務提携を結んでいることから、中村らと共によしもと新喜劇にも出演した。高速バス 横浜 2006年、開幕後しばらくは清原の持ち味であるセンターからライト方向へのヒットや四球が目立った。5月21日の阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成。5月26日の横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔投手から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーン投手から放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。7月23日のオールスター第2戦では、8回2死走者なし代打で登場し藤川球児と対戦、あと1本と迫っていたオールスター最多本塁打記録を狙ったが、空振り三振に倒れている。8月29日の西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。 2007年もキャンプ中に左ひざを痛めて離脱し、2月28日に左膝の軟骨除去手術を行う。交流戦での復帰が報道されたこともあったが回復具合は思わしくなく、7月6日に神戸市内の病院で左膝に移植手術をし、この年はプロ入り以来初めての一軍試合出場なしに終わった。高速バス TDL その後記者会見で、「桑田の、メジャーでの頑張りを見てたらね、桑田がこんなに頑張ってるんだからって思うし、僕も現役を続行したい」と宣言。「普通の選手ならこんな大手術を認めてもらえないのに、球団にはそれを認めてくれた事に感謝している」と語っている。2007年12月10日に契約更改を行い、野球協約による減額制限(40%)を超す45%・9000万ダウンの1億1000万円の単年契約でサインした。セブ ダイビング 2008年7月31日、532日ぶりに一軍に合流。しかし、8月2日に記者会見を開き、「こんな状態なので、来年はグラウンドに立てないと思う」と話し、同年限りでの現役引退を事実上表明した。 8月3日のソフトバンク戦で7回に代打で695日ぶりに登場したが、大隣憲司の前に空振り三振に終わる。翌日の同戦では再び代打で登場し三瀬幸司のストレートをセンター前に打ち復帰後初のヒットを打った。 8月18日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦終了後、「現役選手として最後の誕生日を、ここ(西武ドーム)で迎えられて嬉しかった」と語り、同年限りでの現役引退を決めていることを明らかにした。大阪ビジネスホテル 9月29日、プロ入りから11年間を過ごした西武ドームでの埼玉西武ライオンズとのカード最終戦終了後、グラウンドに出てライトスタンドのライオンズファンの清原コールに応えたあと、バファローズとライオンズの両軍選手が清原を胴上げするというセレモニーが行われた。また、西武時代のチームメイトの渡辺久信監督からも花束贈呈があった。また、西武時代に背番号3番を着けていたので、現在の3番中島裕之とユニフォームを交換した。 引退試合SEOとは 10月1日、京セラドーム大阪でのオリックスのシーズン最終戦、対福岡ソフトバンクホークス、イチローや同年に引退した桑田真澄らが見守る中[1]、4番Hで先発出場。試合前には対戦相手の王貞治監督から花束贈呈もあった(ホークス先発投手・杉内俊哉、杉内は完投)。ビジネスホテル大阪 外野スタンドから西武・巨人・オリックスの在籍時代の応援歌が順に演奏される中、第1打席は2回先頭打者、2ストライクから3球目をライトフライ。第2打席は4回裏1死一塁で4球目を空振り三振。第3打席はオリックスが3−1とリードした6回裏1死一塁で5球目を右中間タイムリー二塁打(打点1)。これが現役最後の安打・打点となった。8回裏1死での最終打席は6球目を空振り三振に終わる。清原は杉内にヘルメットを脱いで一礼し、空振りしたボールは記念球として、この試合で球審を務めた東利夫から清原に手渡され、清原はこのボールに『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』とサインし杉内に贈呈[2]した。試合は4−1でオリックスが勝利した。ウイニングボールがオリックスの先発で完投勝利を記録した近藤一樹から清原に手渡されたが、清原はこのボールにもサインを入れ近藤に贈呈している。宮古島 ダイビング 試合終了後の引退セレモニーでは、オリックス選手会長の北川博敏、阪神タイガースの金本知憲から花束が贈呈され、歌手の長渕剛が『とんぼ』をアコースティック・ギターの生演奏で熱唱した。引退挨拶では自分が所属した西武・読売・オリックスおよび各球団ファン、そしてオリックス入団への道を開いた仰木彬に感謝の気持ちを述べ、最後に「今日、引退させて戴きます。全国のプロ野球ファンの皆様、23年間、応援どうも有難うございました」と涙ながらに締めくくった。その後場内を 1周し、ホームベース上でオリックス選手団によって胴上げが行われた。